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​教育理念

「教育」という言葉を聞いて、
すぐに明瞭な答えを述べられる方は
中々いないと思います。

教育評論家の方や、教育者であれば
「教育とはこうである。」
と述べられる方もいらっしゃるでしょうが、
それも実際にはバラバラなものであり、
見解のひとつでしかありません。

 

では、

「本当の教育」

とは一体何なのでしょうか?

それはどこにも答えはありません。
なぜならば、教育とは

「教える側のある人間」



「教えられる側のある人間(たち)」

に対して行うものであり、
それぞれの

「側」

は経験や性格によって様々であるからです。

つまり、

同じクラスに通う子供たちがいて担任の先生は一人でも、その子供たちの人間性や学力は

すべて異なって当然なわけです。

それは「教えられる側の人間(たち)」が、
それまでに経験したことや形成された性格によって、
感じ取ることや覚えようとする態度が異なるからです。



勉学における教育の一コマです。

AさんとB君という生徒が二人います。

同じ担任の先生から
同じ内容の授業を受けているとします。

では、この二人はテストで
全く同じ点数を取れるでしょうか?

それはあり得ないでしょう。
実はAさんは、授業で受けた内容をしっかり復習し、
時間があれば予習にも取り組んでいます。
B君は部活優先で、
テスト前も友達とゲームをやってばかりです。

これでは結果がどうなるかは明確にわかります。

上記の場合では
両者は対照的な姿勢で勉強に向かっており、
この場合の問題点はそもそもの勉強に対する

「姿勢・態度」

です。

人間は誰もが心の中に天秤を持っており
「楽な選択肢」



「苦しく大変な思いをする選択肢」

の二つで揺れ動いています。

この天秤は大抵の人たちが
「楽な選択肢」に傾けることが多いのです。

それは子供たちだけではなく、
大人である我々ですらそうであることがあります。

この両者の場合では、
Aさんは勉強という誰もが本来は嫌がるものに向き合い
「大変な思いをする選択肢」を取っており、
B君は好きなことや楽しいことを優先するべく
「楽な選択肢」を取っています。

この差はなぜ出てしまうのかと言えば、
B君の経験や育った環境が原因であることがほとんどです。

まずB君はなぜ勉強をしなくてはならないのかについて
理解をしなくてはなりません。

その上で、

「嫌なことから逃げない姿勢」

を身に着けることが求められます。


 

さて、ここにCさんという別の生徒が現れました。
この子はとてもまじめで、
自分から塾にも行きたいと言い、
それ以外にも自宅で勉強をしています。

合計の時間数で言えばAさんよりも勉強をしています。

しかし、Aさんよりもテストの結果が悪かったのです。
さてそれはなぜなのでしょうか?

この場合の主な原因は

「勉強のやり方」

に問題があります。

Cさんは「大変な思いをする選択肢」を取っており、
努力も十分にしているのは明らかです。

しかし中々結果が出せないということは、
メソッド=方法論がCさんに合っていないのです。


 

実は講師である私も
中学・高校と学生時代のほとんどを
「楽な選択肢」を取り続けていた人間の一人です。

ですから、
受験という逃げられない壁と戦う際、
人並みならぬ苦労をしました。


「その苦労があったからこそ今の自分がある。」
と思う反面で、

「もっと最初から努力を重ねていればよかった。」


と後悔することも多々あります。

人生というものにおいて、
おそらく後悔無く人生を送れる人間はいないと思います。

しかし、その後悔を減らすことはできます。
そして減らすことができるのは

「今」

この瞬間だけです。

生徒たちが当塾を通じて後悔を少しでも減らし、
人生における選択肢の幅を増やすことの
手助けをできればと考えております。




 

勉強をなぜするのか

 

そもそも、私たちはなぜ
勉強をしなくてはならないのでしょうか。

多くの大人は

「将来のため」

というアバウトな言葉を理由として
認識しているように思います。

確かにそれは間違った理由ではありませんが、
学歴がなくとも経営者をされている方もいれば、
政治家になる方もいらっしゃいます。

しかし、それは運の要素や時代背景、
そして並々ならぬ不断の努力があってこその結果です。
誰しもが努力や運の要素なく
将来大成することができるのであれば、
勉強をする必要は全くありません。

では、勉強とはどんな理由があって
やらなくてはならないのでしょうか? 

 

それは、先述したように

「将来における選択の幅」

を広げるためにやるものだと
私たちは認識しております。


 

厳しいことを言えば、
中学生の段階で偏差値が50の生徒のその後は
偏差値50以下の高校に行き、
偏差値50以下の大学に行くという
選択肢しかありません。

しかし、
75の偏差値がある生徒は、
75以下の高校であればどこでも行けますし、
大学受験も然りです。


 

そして、社会という門をくぐるとき、
現在の学歴重視社会の日本においては
この75の偏差値を持つ生徒を欲しがります。

それは、

勉強という嫌なものから逃げない姿勢

を持っているからこそ高い学歴と偏差値を持つことが
できたと企業や組織は判断するからです。

ご両親がどれだけ切に企業に対して

「この子は頑張り屋さんで、

とても心優しい子なんです。」

と訴えたところで、その企業は採用しません。

なぜなら、
提出する履歴書に載っている大学や高校名で
忍耐強いのか、逃げ癖があるのか
を公正に判断することができるからです。

勉強とはある種その人間を見る際の

「ものさし」

のようなものだと私たちは考えています。

もちろん、その方の人間性とは
勉強だけによるものだとは思いません。
しかし、
世の中のシステム自体がその
「ものさし」
を使って人間性を判断していることが
多いことも事実です。


 

故に私たちは、
そのことをまず生徒一人ひとりに
認識してもらうことが重要だと考えます。
ご両親ばかりが熱心になっていても
望ましい結果は得られません。

生徒の要望や考え、
将来の目標などを明らかにした上で
それを達成するために
必要な勉強量を提案していくことが
何よりも大切なことなのです。

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